Cyber NINJA Archives

2016年からの旧ブログを整理・修正して収納します。

近世城郭としての五稜郭

 城砦といえば、中央に周囲を睥睨する天守閣なり尖塔なりがあるものを思い浮かべる人が多いと思う。以前取り上げた「真田丸」も大阪城の外郭で、大阪城には大天守があった。城の作り方も、戦国時代にずはいぶん変化した。その集大成が大阪城だったと言える。戦国時代初期には、あのような大天守は存在しない。そんな大工事をする経済的余裕がなかったこともあるが、弓の威力からみて天守から射撃することは考慮されなかったからである。しかし、鉄砲(火縄銃)が普及し有効射程も伸びてくると、城門に迫った敵に天守から射撃できるようになった。より高いところから撃てば威力も増す。

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 しかし、大天守の寿命は短かった。大砲の実用化が進んだからである。現に、大阪冬の陣で徳川側が講和で決着させえたのは、大砲(おおづつ)が大阪城天守を直撃し、淀殿が恐怖にかられたからと言われている。鉄砲よりさらに射程の長い大砲にとって、目立つ天守は恰好の的になってしまう。
 
 大阪夏の陣の後、日本列島は軍事面で長い眠りにつき、新しい城が建てられることもなかった。江戸城天守ですら、1657年に焼失した後再建されていない。しかし、幕末外国船が出没するころには、蝦夷地の防衛力強化が必要になってきた。そこで1866年、新しい城「五稜郭」を建てた。
 
 中央には天守ではなく、函館奉行所がある。低層の建物で、城外を見渡せるわけではない。逆に城外から視認されず、砲兵の目標にはならない。全体像を現したレリーフがあったので、写真に撮っておいた。戦国時代の城とは全く違う構造なのがお分かりいただけるだろう。これを稜堡式城郭という。右下のヤジリのように突き出してるのが、大手門虎口にあたる部分である。前回紹介した「馬出し」の機能を持っている。ヤジリ部分に侵攻しようとすれば2本の橋のいずれかを渡らなくてはならい。写真の左上に見えているのが、その橋である。

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 その時、侵攻側は横合いから射撃を受ける。いわゆる「横矢がかり」である。ヤジリ部分を占領したとしても、本丸に侵攻するときにはもう1本橋を渡らなくてはならず、左右の堤から集中砲火を浴びることになる。鉄砲や大砲の発達が、防御施設である城の構造を変えてきたのは確かである。ただ、城に拠って戦うようになってはもう終わり、というのも同じくらい確かである。現に戦いのプロである土方歳三は、五稜郭に拠らず新選組の生き残りを率いて出撃し戦死している。
 
<初出:2016.6>