Cyber NINJA Archives

2016年からの旧ブログを整理・修正して収納します。

走狗煮ラル(3)

 日本史で似たようなことを探すと、最初に思いつくのは源義経木曽義仲を破り、一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で勝利し平氏を滅ぼした伝説の戦術指揮官である。日本史で初めての「幕府」の開設には、欠くことのできない人物だったことは疑いが無い。しかし本当に平氏を滅ぼしてしまったがゆえに、煮られることになる。

 その次は徳川幕府の初期、多くの戦国大名が葬られた時代である。いわゆる戦国時代は、すさまじい軍拡の時代だった。火縄銃をはじめ武器の改良もあったが、武士と農民の区別などつかず土豪や山賊・海賊の類も一夜明ければ大名に化けることもあった。象徴的なのは、石田三成島左近という勇将を雇ったこと。

    

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 文官で軍事に弱いとされた三成が、知行の半分を島左近に与えたというのには秀吉ですら驚いて理由を聞いた。「兵馬を整え忠勤に励み、何倍も加増していただきますから」と三成は答え、けろりとしていたという。
 
 彼にしてみれば先行投資であり、十分な目算があった(ギャンブルではない)ことになる。いわば、軍事インフレのような状況だったろう。小田原の北条氏を滅ぼし(空いた関東に徳川家康を国替えし)、薩摩の島津を降伏させておおむね天下統一は成った。そうすると日本の中には、今後加増してあげるべき土地が残っていない。
 
 先行投資をした大名たちや、これからそうなろうとする土豪たちに不満がたまってくるわけだ。太閤殿下の朝鮮出兵から明国侵略と言う構想は、そこに端を発するという説がある。事実上秀吉の後を継いで幕府を開いた徳川家康にとっても、あふれかえる「走狗」たちの始末は喫緊の課題だった。しかもそのかなりの者達が「豊臣恩顧」の大名であり、いつ徳川家の敵になるかもしれない。猛将加藤清正は豊臣家滅亡の前に死去(毒殺説もある)していたが、福島正則は安芸の領主として健在だった。

 家康は彼を江戸屋敷に閉じ込めて大阪夏の陣を戦い、豊臣家を滅ぼした。その後正則は帰国を許されるが、家康の死後まもなく城の修復を巡るトラブルで信濃の小国に転封、正則の死後福島家は取り潰される。

 最後の例は明治初期、西南戦争を頂点とする不平士族の反乱である。これについてはいずれコメントすることもあるだろう。日本史を見て思うのは、中国で枚挙にいとまがないほど起きていたこの種の騒乱が、日本では3つしか思いつかなかったこと。やはり、日本は相対的に平和国家なのだ。

<続く>