1976年にカリフォルニアで創業したアップル社は、1980年には株式を上場し順調に業績を伸ばしてきた。米国のコンピュータ市場は離合集散を繰り返しながら、首位IBM、2位DEC以下の形態に固まりつつあった。メインフレームと呼ばれる大型機ではIBMは巨人であり、ミニコンと呼ばれる小型機ではDECが独走していた。そこにアップルが、ミニコンよりさらに小さなパーソナルコンピュータという分野を作って参入したのである。
巨人IBMは素早い反応を示した。「ガレージメーカーと戦うには、自らもガレージに出向かなくてはいけない」と、ESD(Entry Systems Division)を結成、本体のルールすら曲げて独立部門とした。例えば技術等の自前主義をやめ、マイクロプロセッサはインテルから、オペレーティングシステムはマイクロソフトから購入した。日本企業などとの競争に疲れていたインテルはこれで息を吹き返し、マイクロソフトは業界の旗手になるきっかけをつかんだ。
この時点のIBM/ESDがとったのが、オープン戦略である。製品仕様の通常は見せないところまで公開し、コンパチ機を作りやすくした。アップルは基本的にクローズド戦略なので、これを自分だけでなく他社の力も借りて「数の力で圧倒」しようとしたのである。米国市場に限定しても、地域的・文化的などいろいろな区分がある。物流網含めた販路開拓やサポート組織は非常に複雑なものになる。それらにきめ細かく対応するにはIBMといえど1社では不可能との判断だろう。
IBM/PCのマニュアルには、このBIOSのソースコードが全部書いてある。インテルからマイクロプロセッサを買うにあたり、参照ボードの設計図も手に入る。これにマイクロソフトのオペレーティングシステムを乗っければ、一丁あがりというわけ。
アップルは独創性の高いユーザインタフェースなどがあり根強いファンに支えられて業績を延ばしていったが、IBM/PCはそれを上回る成長を遂げた。この時点では、量の市場はオープン戦略に軍配を揚げたことになる。
<続く>