これからの時代はコンピュータ産業が重要だと考えた通産省(現経産省)は、日本でもいくつかの企業を選んでコンピュータ開発をやらせた。その際、1社が撤退してもいいように複数社を組み合わせてグループにした。グループ内でのコンパチビリティを確保することで、最悪1社生き残ればその資産を持つユーザ企業は救われる。
ある意味「官製談合」のようなものだが、新しい設備であり今後の市場も技術も見えにくい中では有効な手法だったと思う。通産省は、世界最大のコンピュータベンダーIBMとのコンパチブルな機器を富士通と日立に作るよう求めた。いわゆる「プラグ・コンパチブル機」で、IBMのマシンで動くソフトウェアやつながるデバイスは原則使える。和製コンピュータベンダー2社が撤退しても、IBMが撤退するわけはないから環境は変わらない、だから安心して使いなさいとユーザ企業に勧めたのだろう。
当時のIBMから見ると、極東の島国でちょこちょこ売っている分には、めこぼししてやるかということだったろう。技術開発に疲れて両社が撤退すれば、その島国の市場は自分のものになるのだから。
それが「めこぼし」できないレベルになって、「IBM産業スパイ事件」が起きるのだが、このころまではIBM(というか業界)は完全にクローズド戦略だったと言えるだろう。コンピュータという高度技術を要する機器を製造・販売するために、IBMはじめ各社は自前の技術・製品にこだわった。主要部品の外部調達など考えられなかった。その状況を一変させるきっかけとなったのが、ある「ガレージメーカー」の登場である。
<続く>