真珠湾攻撃から75年、日本の現役首相が太平洋戦争の発端となった真珠湾を訪れ「慰霊の辞」を述べた。「日曜日の朝、いろいろな語らいがあったでしょう・・・」などと日本語で聞くと大変芝居がかった演説に聞こえたが、英語に直してみると説得力のある語り口だったのではなかろうか。恐らくは英語のスピーチライターが書いたものを、翻訳して話しているのだろう。
攻撃に先立ち宣戦布告が行われなかった(間に合わなかった)ゆえ、世紀の奇襲は卑劣なものと宣伝されてしまった。文書手交が遅れた理由は諸説あり、今でも新説がでるくらいだ。ただ暗号化された開戦文書を、解読し翻訳して正規のタイピストを使わないで文書化するのは大変だったろうと思う。数年前ワシントンDCの日本公使公邸に行く機会があって、その文書をタイプしていた部屋というのも見せてもらった。まさに歴史のヒトコマである。
太平洋を挟んだ2つの海洋国家が、米国はサンフランシスコ・ハワイ・グアム・フィリピンと横につながる線を意識し、日本は横浜・サイパン・パラオ・トラック・ニューギニアからオーストラリアに至る縦線を考えていた以上、両者の衝突は不可避だったように思う。
歴史にも似たようなケースがある。地中海を舞台に、紀元前264年からおおむね100年に渡って戦われた「ポエニ戦争」である。当時のローマは共和制、イタリア半島を統一し地中海へと進出していた。対するカルタゴはレバノンから海に出たフェニキア人が作った国家。地中海を知り尽くし、産業だけでなく交易でも栄えていた。太平洋と地中海、大きさはケタ違いだが当時の地中海は最大の大洋であった。
両国の間に位置するシチリア島を巡って戦われたのが第一次ポエニ戦争。勇戦するも結局は敗れたカルタゴだったが多額の賠償金を背負わされても「奇跡の復興」を遂げる。この時点で、カルタゴにはいくつもの優越があった。今で言うバイオテクノロジー、優秀な農産品を生み出す技術もそのひとつ。加えて市民が勤勉で働くことにしか興味がなく、不気味なワーカホリックとローマ側からは見えた。
ここまでは日米の戦後史と似た経緯である。しかしカルタゴは和解の道を選ばず、再びローマに戦いを挑んだ。別名ハンニバル戦争とも言われる第二次ポエニ戦争である。世界史に名を残す名将ハンニバルは、ノヴァ・カルタゴ(今のスペイン)で兵を養いアルプス越えの奇襲でローマ本国に攻め込んだ。
<続く>