久々に名古屋駅に降り立った。どう考えても盛夏のこの時期、来るようなところではない。現にこの日も岐阜では40度近くまで気温が上がり、TVニュースは「厳重警戒」を呼び掛けている。関東の前橋近辺も酷暑で有名だが、東海地方のそれは肌にまとわりつくような、独特の重苦しい暑さである。
それでもやってきたのは、年に一度大学の同級生が集まって呑もうという会があるから。仕事ではないのがせめてもの救いで、アロハシャツ1枚という軽装である。目的地へはこの地方の有力私鉄名古屋鉄道に乗り換えて行く。関西と違ってこのエリアの私鉄は少ない。僕が子供の頃は、国鉄(今のJR)を「汽車」、名古屋鉄道(名鉄)を「電車」と呼んでいた。名古屋駅で懐かしい赤い列車を何本か見送っていると、向かいのプラットフォームの表示に気付いた。あれ、山王駅ってなんだっけ?
名鉄名古屋本線を南に行けば、次はナゴヤ球場前駅だったはず。しかしその後「ナゴヤドーム」ができてナゴヤ球場は廃止になった。なるほど、それで駅名も変わったのかと少し後で納得した。これから会いに行く同級生たちと初めてあったのは、1974年のこと。この年のセ・リーグペナントレースは前年(ジャイアンツがV9を果たした)より苛烈なレースになった。V10をドラゴンズが阻むかどうか、最後の最後までもつれた。長島三塁手の現役引退の年でもあり、ジャイアンツの川上監督が退いた年にもなった。
ジャイアンツに引導を渡したのは、与那嶺監督率いる中日ドラゴンズ。エースは先ごろ亡くなった星野投手(のちに中日、阪神、楽天で監督を務める)だった。星野投手(明大)はドラフトでジャイアンツに指名されることを熱望していたが、ジャイアンツは高校生の島野投手を指名。彼は「ホシとシマの間違いじゃないか」と怒鳴り、ドラゴンズに入団以降ジャイアンツ打倒に「燃える男」の精力を傾けたと言われている。
そんな「ツワモノドモノノユメノアト」が旧ナゴヤ球場である。狭い球場で、ロッテオリオンズから元三冠王の落合三塁手が入団した時は、60本でも本塁打が打てるかもと言われたこともあった。でも、駅名も変わり球場の跡も見分けられないまま、あっという間に山王駅を列車は通過してしまいました。
<初出:2018.7>