「働き方改革」関連法案の審議で、国会が事実上空転している。「このいいかげんな法案を撤回しない限り予算審議などに応じない」姿勢の野党も大人気ないが、出せば出すほどデータの信憑性が疑われる政府も情けない。野党の姿勢は(是非はともかく)予想されたものではあるが、政府の方はちょっとタガが緩んでいるような気もする。僕の感覚では、霞ヶ関官僚はデータを扱うことに関して実に有能である。民間にあるものはもちろん、政府内の民間も知りえない情報すら持っているのだからある意味当然である。
米国のような民主(原理)主義国では、政府と民間が同等の情報を持っていないと正しい民主主義が成り立たないとの思いが強く、それが政府の情報を公開させる「オープンデータ」の動きに現れている。クリントン政権がGPS情報を開示して、かくも産業が潤った/競争力を増したというのは宣伝文句として割り引いて考えたほうがいい。民主原理主義として、情報の均衡をとろうとした結果であるからだ。
一方日本の市民は、徳川家康曰く「知らしむべからず、拠らしむべし」との愚民化政策によって「お上」意識が強くなり、庶民は黙って働いていれば為政者がうまくやってくれるという潜在意識を持たされている。そこで情報の政府による統制が強まり、昭和の一時期に国を滅ぼしかけた。その傾向は、戦後弱まったとはいえ根強い。政府の情報統制については程度問題もあるのだが、前提は霞ヶ関官僚の情報ハンドリング能力が十分あるということである。
https://mainichi.jp/articles/20180227/ddm/002/010/088000c
それが今回のドタバタを見る限り、ハンドリング能力の欠如といわざるを得ない。ビッグデータ時代に、日本の官僚機構とそれを生む一部の教育機関が対応できなくなったのだろうかと(冗談だが)思う。能力の欠如でないなら、故意のサボタージュではなかろうか?