ウィーン王宮の北口を、ミヒャエル広場という。グラーベン大通り沿いにあるペーター教会よりも、規模の大きなフィアカー(観光馬車)の乗り場になっている。20世紀の終りごろ、ここにローマ帝国の宿営地があったことが考古学調査で分かったとガイドブックにある。
もともとは、ドナウ川沿いにケルト人が住み着いた「ウィンドポナ」という集落だった。これをローマ帝国が100年ころに征服、宿営地を置いて統治した。最盛期は2~3世紀のころで、その後ローマ帝国の衰退に伴いすたれたという。
特筆すべきは、工学(エンジニアリング)の能力だ。当時のエンジニアリングと言えば、メインは土木工学。治水をし、城砦や港湾を作り、道路や水道などのインフラを整備する。画像でも、このレンガ積みが1900年前に作られたとは思えない精度と耐久力である。
ガリア、ゲルマニア、ダキア等の先住民には、太刀打ちのできない軍事力と経済力だった。しかし一旦は駆逐された先住民も、いずれローマと文化・技術の交流をし、文化レベルを上げてくる。ローマ帝国も、広がった版図すべてを「ローマ市民」で守ることはできない。ケルト人などを準市民権を与えることを条件に、傭兵として辺境警備に充てるようになる。
これがローマ帝国を衰退させるのだが、一方で彼らの技術・文化を高め、欧州全体の繁栄の基礎を築いたのだろう。